当初は予定されていなかった芝居が作られ、たった一日だけ上演される。「光を託された男 志村喬」――。
脚本を書いたのは宮崎・延岡出身の港岳彦さん。県立延岡工業高校を卒業後、日本映画学校で学び、数々の映画、ドラマなどの作品を書き、特に2024年公開の映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(吉沢亮主演)は高く評価された。次回作「SUKIYAKI 上を向いて歩こう」(岡田准一さん主演)の2026年の公開も待ち遠しい。
今回の作品は俳優・志村喬の生誕120周年を記念して行われる展示、映画の企画から生まれた。延岡で少年時代を過ごし、生涯400本という映画に出演した男がいたという事実に加え、今話題作に名を連ねる脚本家が延岡出身だったという偶然がもたらした。
港さんいわく、これは「延岡の人たちのための、延岡の人たちによる、延岡の」芝居。この幸運を分かち合うべく、港岳彦さんに延岡での高校時代、愛宕山への思い、“泣ける”同作について話を聞いた。
***
■延工高からエンタメの世界へ
――脚本家を目指したのは、高校生のときですか?
港岳彦さん(以下、港):最初は高校を卒業したら、日本映画学校に入りたいと思いまして、それで演劇部に入ったんです。映画学校の募集要項に「高校時代にどんな文化的なことをしましたか?」という項目があったから(笑)。でも当時の工業高校の文化は喫煙に暴走行為、けんかにカツアゲしかない(笑)。それで演劇部の顧問だった段(正一郎)先生のところに行ったんです。けれど、先生が異動するから、延工の演劇部は廃部になると決まっていました。それは困ると思い、自分が脚本を書いて演出をすることを約束して、存続させてもらえることになった。
本当にひどいんですけど、僕はそういう理由から始めているんですよね。僕が所属していた吹奏楽部の人間を駆り出したり、既に演劇部に入っていた後輩に助けを借りながら、いざやってみると、「こんなに面白いことがあるのか」と思いました。最初の作品は、自分のことを書いたんです。工業高校の男の子と進学校に通う女の子のラブストーリー。
工業高校に通っている人間は、卒業したら大学に行くわけでもなく、工場とか、そういうところに働きに出る人が大半なわけです。当時「3K」という言葉がはやっていたんですけど、そういう職業ですよね。日々よろしく、楽しくやってるんだけれど、「自分たちはここで青春が終わるんだ」っていう、あの感覚をみんな持っていて、共有していた。
進学校、例えば延高(のべたか=延岡高校)に対しては、「その後、青春が始まるんでしょう?」っていうやっかみというか、そういう感情があって。だからヤンキーぶっていて悪ぶっているんだけど、根本的にすごい寂しさがある。
そういう個人的な感覚を芝居に書いていいんだってことに気づけたんですね。物語にできるんだと。
芝居にして、自分が日々感じていることを友達たちに見せる。「どう思うか?」とメッセージを放てるっていうのは、すごいことだなと思いました。自己表現というものの面白さと、それを表現して人に見てもらってレスポンスをもらうことの面白さ。その両方を味わった、表現の面白さを一番感じた経験でした。
まず、県の高校総合文化祭(演劇祭)に参加して、奨励賞をもらいました。その後、延工の文化祭で上演して。だから2回しか上演していないんですけど、そのおのおのの反応もすごく面白かった。
演劇祭の方は、他の高校は顧問の先生が書いた作品をちゃんと訓練された、優等生的な演技をみんながやっている。コンペなので一応優劣がつけられます。僕らは誰も何も教えてくれないから、後輩が「確か先輩がこういう風にやっていた気がする」みたいなことを僕が教わって、じゃあそうしようと言って、手探りでやる。結果的に評価していただいて。多分、審査員も僕らの芝居のようなものをあまり見たことがなかったんだと思う。かなり露悪的に書いてるので、僕らの生の声を聞いてびっくりしたんだろうなと思うんです。演技もものすごく荒っぽいし、僕ら、やっぱ不良っぽいですし。
で、母校の文化祭でやった時は、「本当に分かる!」「すごく考えさせられた」みたいな感じで来られて、人ごとではない感覚で見てもらった。この2つの反応が面白いなと思いました。
■自分で発見していくことこそ、クリエーティブ
今、九州大学で物語や映画作りについて教えているんですが、別に映画を作りたくて来ている人なんか一人もいないんですよね。そこに「ちょっと映画を作って」といきなり投げるんですよ。ほとんど何も教えない。脚本の書き方もペライチで、こうこういう風にやればいいかなくらいしか言わず、映画の撮り方という講義も一日だけ福岡在住の監督が来てパパッと教えるだけ。学生は全員素人なのに、完成したものを見たらすっごくしっかり作っていて、びっくりした。何でこんなことできたの? 俺、何も教えてないけどと。
そしたら、自分たちで必死に探しましたと。今はやっぱりインターネット、ユーチューブがあるから、やる気があったら調べて全部できる。実は「やってください」という枠組みを与えるだけで、あの子たちって全然自分たちでやるんだよなと。もちろん単位を取得したほうがいいっていうモチベーションはあるけど、もっと手取り足取りやるべきだと思っていたのは違っていたと思って、反省しました。
僕が工業高校で初めて脚本を書いた時も、誰にも教わってないんですよね。自分の声をそのまま書いていいんだってことを発見していくプロセスだったということを、多分、彼らも同じように自分たちで発見している。彼らの力を侮ってはいけないっていうか、そっちの方が断然クリエーティブだなと思いましたね。
■特別な「延岡のための」芝居
――志村喬さんをテーマにした芝居ですが、フライヤーの港さんのコメントの最後が「プレッシャー、半端ねぇぇぇぇ!!」でしたね。
港:本当に難しかった。志村喬は私生活とかに面白い話があるかっていうと全然ないんですよ(笑)。勝新太郎みたいな人なら激しい私生活があるんですけど、生真面目で、愛妻家で、穏やかで、ネタがない。
その彼の良さを伝えたいと思った時に、やっぱ「生きる」っていう映画ですよね。彼があの映画の主役に当て書きをされてまで出演を依頼され、演じ切ったこと。そしていまだに世界の映画史にその名を残している理由を書きたいと思いました。
これが一つの軸になって、生きるとは何かっていう、ド直球の問いかけがあるんですよね。別に志村喬だけじゃなく、もう生きている全員の問題だなという。
延岡のおもちゃ工場を舞台に物語が展開するのですが、延岡で延岡の人が見る舞台という風に最初から決めて作っている。基本的には「フォー 延岡の方」なんです。そこに特別感がある。延岡弁ですしね。
――志村喬役は…?
港:まず少年時代の志村喬は延高の演劇部の男の子がやっています。演出の段先生が「もう、すごいの見つけた」と言って、喜んでLINEしてくるぐらいの子。
成人してからの志村喬は真部法人さん。みんなで飲む機会があった時に、この人、すごいなと思って。とにかく一言もしゃべらない。口を開くと、いい声をしているんですよね。普段は地味な仕事をされてるらしいんですが、妙なカリスマ性がある。
出演する役者さんは、校長先生や県庁職員、会社の社長とか、仕事を持っていて、言ってみれば「日曜演劇部」なんですけどね、皆さんのプロフィールとかエピソードをフル活用して、台本を書きました。みんな当て書きです。
俳優の山田キヌヲさんは、少年時代の志村のお母さん役と志村の夫人役の両方をやってもらいます。山田さんの読み合わせの動画を見ましたが、やっぱりすごいですよ。もともと僕らの業界でも非常に評価の高い方ですけど、プロ中のプロって感じがする。ピリッとしていますね。
■志村喬と愛宕山でつながる
――志村喬が延岡で作った詩にひかれたとおっしゃっていましたね? フライヤーにも書かれていました。その詩は…
あめはふるふるしょうしょうと
あたごの山はみどりにて
霞のおくにそびえたつ
夕べの風は心地よく
蛙の声をきくうちに
はや黄昏の影よせぬ
港:いや、びっくりしましたよね。愛宕山のことをうたったのかということと、芸術的感性があるよなぁと思って。カエルの声を聞くうちに、たそがれの影が寄せるって。まあ、当時の国語文化がこれぐらいの高いレベルにあったんだとも思うんですけど、全般的にね、すごいなと。
宮崎で、僕は少年時代、日が暮れるのを眺めるのが、すごく好きだったんですよ。朝は新聞配達をやっていたから、朝焼けも必ず配達が終わって眺めていた。朝焼けが美しいな、日暮れも美しいなという、この2つを堪能してたんですね。この感覚は関東に行くとなかなか味わうのが難しい。
志村喬も少年時代にそういうものに引かれ、ちゃんと詩にまとめている。やっぱり志村喬も愛宕山なんだと思いました。僕の少年時代に山が大火事になって、町中が1週間ぐらい黒煙にまみれたことがある。その時はもう世界の終焉(しゅうえん)だと思いました。愛宕山が世界の中心だと思ってましたから。
志村のこの詩があるとないのとでは、本当にこの方への距離感というのは、全然違っていたと思います。愛宕山は、志村をすごく近く感じられるキーワードです。
槙峰鉱山の歴史も調べて地元の高齢者の方にも取材しましたが、もう鉱山が栄えていた頃の記憶は薄らいでいるんですね。大正時代にものすごく栄えていて、花街もあって、最盛期は4000人、5000人がいたとか。延岡に旭化成が来る前。だから、槙峰よりも延岡市内の方が田舎だった。志村喬が延岡を出て、大阪に行った年に日豊本線と旭化成が延岡に来る。そういう志村喬の歴史を追いかけることが、延岡の歴史も追いかけることになって、それも面白かったです。
今回この作品を書くことになった時、演劇部や吹奏楽部の高校生をキャスト、スタッフに入れることを提案しました。演劇制作に参加し、それを人に見せてレスポンスをもらうという経験、他者と一緒にものを作ることや感想をもらうこと。そうした経験を、ぜひしてほしいんですね。
僕の場合、初めての書くという経験が今の仕事に確実につながっている。人前でそういう、芸事のような経験を10代のうちにするっていうのは、別に文化芸術の道に進まなくても、きれいごとを言うと、人生を豊かにする方法を若いうちに知ることができるということなんですね。もちろん今も、TikTokとかインスタとかの動画配信で表現しているとは思うんだけれど、演劇という形は人と一緒にやらなきゃいけない表現方法なので、協力し合いながらなんですね。ライブでやるというところも、生々しい反応が出てくるので違う。視野が広がる経験なんですね。
段先生は、僕のそういう希望を一つ一つ、学校などに話しに行ってくれて、実現してくれました。もう先生はヒーヒー言ってます(笑)。僕の友達が「チラシを30枚くらいなら配るけど」と言ったと伝えたら、先生は丁寧な手紙を書いて見知らぬ友人にチラシを送ってくださったみたいです。そういうことまでやっています。
段先生は延工で、尾崎豊とか、浜田省吾とかはやっていた歌の歌詞についての授業を当時やっていました。ヤンキーたちに受験用の国語なんかやったってしょうがないから、せめて日本語や言葉というものの面白さ、大切さ、尊さみたいなのをどう教えるかということを考えてくれていた。この人ってすごいと僕は分かっていた。その話を再会した時にしたら、「お前、何でそんなことが分かったんだ?」って言っていました。
■「多分、泣けます」
――港さんは18歳まで延岡にいて、今の延岡を見るとどんなことを感じますか。
港:先日、城山に行ったんですね。運動部の高校生が20人くらいいて、通りすがりの誰でもない僕にあいさつするんですよね。力強い声で。この文化は何だろうと思いましたが、よく考えたら、僕らも昔はあいさつしてたんですよ。
理由は分かんないですけど、あれを見てものすごいパワーを感じた。若い子がみんな真っ黒になっているのを見ると、まだまだ延岡は元気があるなって。
あと、すし屋が多いですね。好きなすし屋があって、おなかがいっぱいなのに行ったりして。延岡は食い物がうまいですね。気取ってない魚というか、日常として食べる魚のおいしさみたいなものをすごく感じる。銀座で何万円もかけて食ったら、まあ、それはおいしいに決まってる。そういうことじゃないんだよなって。
――最後にぜひPRをお願いします。
港:全ての延岡の人に見てもらいたいぐらい。赤字になるといろいろ困りますから(笑)。演劇と展示と映画上映とって、ジャンルを超えて楽しいと思うんですよね。
僕は脚本を書くだけですけど、稽古する人たちは半年ぐらい、仕事を抱えながら稽古を連日していて、ほんと、すごいですよね。
多分、泣けます。「泣けないじゃないか」とクレームが来ても困るので、「多分」と言っておきます(笑)。
【公演情報】
「光を託された男 志村喬」
日時:2025年6月7日(土)、開演は13時30分(13時開場)と18時30分(18時開場)の2回。
場所:野口遵記念館(延岡市東本小路、TEL 0982-31-3337)
料金:大学生以上=2,000円、高校生以下=1,000円。当日券は500円増し。全席自由。